仲代表の「グローバルの窓」

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第80回 南洋と日本のグローバル化(1)Thinking about Japan’s globalization

2024.12.02

 ドイツに始まりシンガポールまで、これまでの私の海外体験を綴ってきました。最後に私はグローバリゼーションと日本のグローバル化への思いを書くことで、「グローバルの窓」のブログ連載を終えたいと思います。そのため、日本の軍人、文人、そして今日ではビジネスマンが活躍しているシンガポールや東南アジアを補助線に引いてみたいと思います。

からゆきさん

 私のシンガポール在住は丸三年でした。それまで駐在したミュンヘン、ミラノ、マニラと違い、シンガポールは小さな国で極めてユニークでした。毎月、私の所属する俳句結社誌に「熱帯と創作」と題し、明治維新後、日本人がどうシンガポールに関わってきたかを小説やノンフィクション作品を中心に紹介し、連載しました。作家や詩人では、金子光晴、林芙美子、火野葦平、井伏鱒二、大岡昇平、松本清張、深田祐介、桐野夏生、角田光代等の作品を取り上げました。取り上げた作品はほとんどが太平洋戦争絡みのものでした。

 今日でいう「東南アジア」は戦前、戦中は「南洋」と呼ばれていました。南洋進出を最初に果たしたのは、まず娼婦でした、いわゆる「からゆきさん」と呼ばれた女性たちです。そのあと呉服屋、旅館業、日用雑貨商、写真屋などが「からゆきさん」たちに寄生するかたちで進出しました。山崎朋子の『サンダカン八番娼館』は実在の「からゆきさん」を取材した迫真のノンフィクション作品です。体当たりの取材姿勢は圧巻です。

 シンガポールの日本人墓地には、名もなき小さな石がいくつも並んでいます。いずれも「からゆきさん」のお墓です。二葉亭四迷の碑もあります。朝日新聞特派員としてロシアに赴任した四迷は、日本への帰国途上、ベンガル湾上で客死しました。明治四十二年(一九0九年)のことです。四迷は志半ばで生涯を閉じましたが、終焉の碑として残っているだけでも浮かばれるというものです。四迷の死後、日本は一等国の仲間入りをし、戦争へと突き進みました。日本が一等国の地位を勝ち取った裏には、「からゆきさん」たちのような過酷な人生を送った人々の存在がありました。名もなき小さな石は、日本の近代化が置き去りにした何かを象徴しているように感じました。

南洋の登場

 日露戦争に勝利した日本は朝鮮、台湾を領有し、膨張していきました。日本の活動はほとんど中国を中心に展開していきました。二十一か条の要求(一九一五年)あたりから中国の反日感情が高まり、やがて日本は中国の反発をねじ伏せようと満州事変、日中戦争へと突入していきます。そうした日本の動きを封じ込めるべく西洋列強は日本に経済封鎖を課しました。事ここに至り、日本は石油等の資源を求めて南洋に進出しました。南洋が歴史に登場するのはこのときからで、太平洋戦争の始まりのせいぜい二年前くらいです。

 それまでの日本の経済進出は満州が中心で、南洋のゴムや鉱山開発は傍流でした。南洋は、太平洋戦争が始まる直前に俄かに注目され、日本人の関心を集めましたが、それまでの南洋は、西洋列強の植民地地域という認識程度で、日本人からすれば辺境といってもいい地域でした。陸軍は仮想敵国をロシアに置いて活動し、朝鮮、中国を利益線としていましたので、活動の中心は中国大陸にならざるを得なかったのです。この頃の海外進出といえば中国、さらに満州国誕生(1932年)後は、自ずと満州が中心になりました。

 満州事変(1931年)以後、日中関係は庶民のレベルでも悪化の一途をたどりました。十五年戦争とは満州事変から太平洋戦争の終戦までを指しますが、最初の十一年は、表向きは中国との戦いでした。米英相手の太平洋戦争は実質三年半程度でした。南洋は中国との対立に引っ張られて歴史に登場したともいえます。

金子光晴

 戦前の日本人の海外進出は、軍事中心でしたが、戦前においても南洋を渡り歩いた詩人がいました。金子光晴です。当時は飛行機もなかったので、船で欧州へ行く人がほとんどでした。その際、シンガポールは寄港地となりました。

 既に旅銀の尽きた金子は、インドネシアやマレーシアを放浪し、絵を描いてパリへ行く旅銀を稼いでいたのです。金子は当時の南洋を「文明のないさびしい明るさ」と表し、戦争をもたらす文明がいかに空虚であるかを看破していました。また、「人間が国をしょってあがいているあいだ、平和などくるはずはなく、口先とうらはらで、人間は平和に耐えきれない動物なのではないか」(『絶望の精神詩』)とも書いています。国家という得体の知れないものの本質を見抜いていたのだと思います。今のウクライナやガザでの紛争を見ていると、この言葉は百年たっても色褪せません。

 当時の金子は、軍事に走る日本を見ながら個人としては妻との生活がうまくいかず、十年間まったく詩が書けない状態にいました。しかし、パリからの帰国途上、再びシンガポールからマレーシアのバトパハを訪れた時、詩人の魂が復活するのです。『にしひがし』を読んでもなぜそうなったのかの理屈はわかりません。しかし、圧倒的な南洋の空気感が詩人の魂を復活させたのです。この空気感を体で感じることが実はグローバル化の中核部分の一つなのではないかと私は思っています。

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