仲代表の「グローバルの窓」

仲代表の「グローバルの窓」

第8回「グローバルの窓」”Firstly discuss with Naka.”

2021.08.31

1986年2月に私はドイツへ出向しました。ドイツの現地法人(1985年設立)のビジネスの中心は、プリンタとディスクドライブでした。この2つの商品群が両輪となり、ビジネスは3倍速の勢いで伸びていきましたが、それぞれビジネスモデルが違っていたことが、リスク分散にもなりました。プリンタはディーラー経由のチャネルビジネスで、プリンタ自体が最終商品となります。一方、ディスクドライブは大手顧客(PCベンダー中心)への直販が中心で、ディスクドライブ自体はPCに組み込まれ、コンポーネントとして供給するかたちになります。

私は日本で4年勤務したあと、セールスプラニング部のマネジャーとして赴任しました。最初は「私の部は英語でなく、ドイツ語で話すぞ」と意気込んでルール化したものの、ビジネスはどんどん進み、次々と決めていかなければいけない状況に日々追い込まれていきました。結局、1か月もしないうちに、「ドイツ語はやめ、英語でしゃべってくれ」となってしまいました。

業務は、主に宣伝や販促といったプロモーションの企画、実行と市場調査、それから売上予算立案、管理といったところで、営業部隊との密接なコミュニケーションが欠かせません。プリンタのヴァイトとディスクドライブのハーターとはよく夜遅くまで議論しました。二人とも当時は40歳前後の脂の乗り切った百戦錬磨の営業マネジャーでしたので、この二人から私は多くのことを学びました。しかし、二人にしてみれば、私はドイツの市場や商習慣もわかっていない26歳の若造です。それがよく日夜粘り強く議論してくれたなと思いますが、そこには日本人の社長の隠れたバックアップがありました。

何かを決めるのに、彼らは最初は社長のところに行って、こうしたい、ああしたい、と言っていましたが、社長はその場で決めないのです。必ず、”Firstly discuss with Naka, then come to me.”と言ったり、”I approve, if Naka approves.”というように言ってくれました。社長は決めようと思えばその場で決められたのですが、必ず私と議論するよう仕向けてくたのです。彼らにしてみれば、私を口説かないことには社長の了解がもらえないので、必死でアイデアを説明しますし、プロモーションのお金が必要な場合は、その必要性をあの手この手で説明します。お蔭で市場やお客様の情報が自然と私のところに入ってくるようになりました。

それにしても社長は、私のようなたかだか4年日本で勤務した社員を、しかもマネジメントの経験もないのにいきなりマネジャーとしてドイツの組織に組み込んでやらせるとは、随分とリスクを取ったものです。実は私より一つ上の先輩も27歳にしてマネジャーとして同時に赴任されました。それまで主任級の方がやっていた仕事をその先輩と私が引き継いだのです。先輩は需給関係の業務を私はプロモーション、営業企画の業務を引き継ぎました。主任級の方がパリの支店長として赴任が決まったので、若造の我々二人が日本から出向となったのです。

ビジネスがすごい勢いで伸びていましたので、私はセールスプロモーションの仕事に毎日追われっ放しでしたが、営業マネジャー2人の協力のお蔭で何とか仕事をこなすことができました。しかし、その裏には社長の大きなサポートがあったことを忘れることができません。新設の現地法人の立ち上げ時期に人事面で自らリスクをとり、組織の活性化と若手の育成を図った見事なマネジメントだったと改めて思います。


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