イタリア会社の日本人は社長と私の二人だけでした。予算策定や技術問題など日本サイドとやり取りする際は、細かなニュアンスを伝えるためにも社長と私が大体対応していました。
海外の現地法人の事業の雌雄を決する重要な問題の一つにTP(Transfer Price)があります。現地法人が本社から購入する商品の価格のことです。TPに競争力がないと売れません。TPは事業の根幹で、現地法人の命運を決めるといっても過言ではありません。
本社へお願いごとや要求をぶつける時、社長はよく私のところに来ました。「どう本社につなごうか。君はストーリーテラーだからいろいろ考えて」と言い、協議しました。大概、私のパソコンの前で、ああでもないこうでもないと二人で議論しました。
携帯電話市場の競争が激化する中、イタリア会社はTPを下げてもらわないと事業が立ち行かなくなる状況に陥っていました。単純に市場が厳しいからTPを下げてくれ、というだけでは本社も応じてくれません。市場状況、イタリア会社の事業推進の方向性、事業インパクト、中期的な事業方針などを織り交ぜながら、臨場感をもってお客様との交渉状況を本社に伝える必要があります。
社長と私は、PCの前に座って、携帯電話事業者との交渉状況を振り返り、ああでもない、こうでもないと文案に苦しんでいました。我々の要求が通らないとイタリア会社は相当な苦境に追い込まれます。赤字転落はおろか、今後の事業の舵取りも危うくなる瀬戸際に追い詰められていました。結局、その日は二人とも精魂尽き果て、翌日頭を冷やしてもう一度考えようということになりました。
翌朝、社長に会ったとき、社長は「この問題を克服できなかったらイタリア会社が終わってしまうことを考えると、昨夜はほとんど眠れなかったよ」と言われました。私は驚きました。社長はそこまで思い詰めておられたのに私自身はぐっすり寝ることができたからです。ここに社長とマネジャーの覚悟の違いを知らされた思いがしました。
その日、社長と私はPCに再び向き合いながら、本社側へTP見直しのお願いメールを送りました。TPはたしかに現地法人の生命線ですが、社長がここまでこだわるとは思いませんでした。その思いに部下の私も何としてもTPの値下げを勝ち取るべく、渾身の思いを込めて本社にお願いしました。その結果、本社も我々の思い、事業状況を理解し、TPの値下げに応じてくれました。
このTPの値下げの結果、拡販に弾みがつき、イタリア会社は以後10年ほど携帯電話事業でトップグループの座を確保し続けました。今思えば、イタリア会社が伸るか反るかの分水嶺だったのかもしれません。社長はそのことを感覚として掴んでおられたのだと思います。このときイタリア会社の社長が真剣に悩んでおられたことは、私の心にずっと残りました。社員50人を抱え、社長としての責任感が重くのしかかっていたのだと思います。七年後に私はフィリピンに社長として赴任しましたが、このイタリアでの経験はいつも頭から離れませんでした。