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ブラジルで実感!日本への熱い思いとキズナ!

はじめまして。2003年にスペイン語学科を卒業した久保和子です。大学卒業後、自分のやりたいことを実現するために、日本とブラジルでいろんな経験を積み重ねながら、一歩一歩前に進んできました。そんな私の体験談をご紹介したいと思います。

就職難でも本当にやりたいことを探したかった

4年生になっても毎日大学へ通い、部活動に精を出す日々。普通の大学生なら、3年生までに単位取得をほぼ終え、4年生は就職活動に力を入れることが一般的ですが、当時は本当に就職難で一人あたりの応募数も20社以上は当たり前でした。

早めに就職活動を始めていれば状況は違っていたのかもしれませんが、そんな状況でも頑固であまのじゃくな私は、受かったところでひとまず働くということに違和感があり、部活に出ながら自分がやりたいことを模索していました。気が付けば3月。そのまま、卒業を迎えることに。

卒業後、アルバイトをしながら本格的に自分の進みたい道を考えます。もともとスペイン語圏で日本語を教えてみたいと思っていたことも重なり、熟慮の末よし!やるぞ!と決めた先は日本語教師の道。まずは日本語教師になるための専門学校へ通い始めます。とはいえ日本語を教える資格を得ても、当時は伝手(つて)がほとんどないのが実情でした。

そんなとき、「ブラジルで日本語教師を募集中」という求人情報を発見!内容を見るとほとんど保障のない正真正銘のボランティアです。2年契約で住居付き。2年目からは生活費の補助も出ると明記はされていますが、渡航費など諸費用は基本的に全て自己負担。それでもこれはチャンス!と思い、行くことを決断。

実はこの時点では、公用語であるポルトガル語は、スペイン語と似ているので何とかなるだろうという軽い思いがありました。ところが実際には、ポルトガル語が全く聞きとれず、苦労をすることに???

準備も整いいざブラジルへ!

ご存知の方も多いと思いますが、ブラジルは日本の22.5倍の面積を持ち、人口も日本の約2倍。現在3世、4世になる世代を含めた日系ブラジル人はおよそ200万人も!日系会社がまだまだ根強く、日本文化を残すべく頑張っている方々がたくさんいらっしゃいます。それこそ県人会や日本人会のある地域、そして会館も存在しています。私が派遣されたボランティア先にも日本人会の会館があり、そこで日本語を教えていました。

日本人が経営する日本語学校が多い中、私が向かう先は場所を借りているだけのようなこじんまりした場所でした。ところが、日本語を学びに来ている日系人は少なく、日本のアニメや日本文化に興味を持つ非日系人がほとんど。どちらかというと、非日系人の方がやる気を感じたほどです。

日本のことばや文化を伝える日々はアッという間にすぎ、気が付けば2年目。学校自体を私がメインで回すようになっていました。学びの内容も、日本語だけではなく、日本文化も一緒に知ってもらおうと、盆踊りや餅つきなど生徒全員が参加できるイベントをたくさん実施し、喜んでもらいました。

ブラジルには日本文化を次の世代へ伝承しようと頑張る日系人や、日本文化をもっと知りたいと思っている非日系人がたくさんいます。我々日本人は“オリジナル”ですので、これからブラジルをはじめ、世界に向けて出発予定の方は、ぜひ自国の文化を再認識してから訪れるとより交流が深まるのではないかと思います。

日本での仕事もやりがいはあるけれど行き詰ってしまった

日々言葉や文化の違いに奮闘しながらも、日本語を教えた2年間はあっという間です。契約期間満了により、帰国後は公立の小中学校で外国籍 (特にブラジルとペルー)の児童?生徒への日本語指導及び通訳の仕事に就きました。仕事はやりがいある内容でしたが、文科省のプロジェクトの一つだったこともあり、事業仕分けにより廃止。子供たちには支援の必要性があったにも関わらず残念な気持ちで一杯になりました。

それでも日本語を教える仕事を続けたいという強い思いがあり、日本語学校に勤務しながら、小学校の教員免許が取得できる通信制大学に入り直しました。日が経つにつれ、日本語学校の仕事が忙しくなり、勉強との両立が困難な状況に。このままでは目的が達成できないと判断し、免許取得を優先するために仕事を辞めることに。それでも生活と学費は必要なのでアルバイトをしながらでしたが、教員免許は無事に取得!

その後、小学校で臨時採用となり通常クラスの担任として授業を受け持つことになったものの、行き詰まりを感じます。なぜだろう。。。とよくよく考えると、その答えは簡単に見つかりました。

自分が本当にしたかったことは外国籍の子どもたちへの支援だった!

だからと言ってすぐに支援の仕事が見つかるわけではありません。いろいろと探しながらも、ダメもとでボランティア時代の同期にも訪ねてみると、「あるよ」と思わぬ返事が。海外で働く最後のチャンスを逃したくないと再度ブラジル行きを決心したのです。

Voltei!!ブラジル!

ブラジルの生活では本当にいろいろなことに遭遇しました。最初は、街から遠く離れた田舎の山にあるホテルや果物農場での仕事でした。山に住んでいると急に停電になったり水が出なくなったり、都会では考えられないようなことがたびたび起こります。いたる所に、蛇、アリ、そして、蜂も。蜂に刺されて腕から肩まで腫れ上がり、救急病院に駆け込んだことも???まさにサバイバル生活ですが今となっては生命力がアップしたと確信しています(笑)。

現在は、サンパウロでポルトガル語と日本語を使う仕事をしています。サンパウロには東洋人街があり、日本食にも困りません。ブラジルは移民大国でヨーロッパからアジアまで多人種多文化で本当に興味深い国です。

一方、ブラジルの仕事事情はというと、携わる仕事につながる経験(職種や職場など)を多く持つ人は、いろいろなことがこなせる人材として高い評価につながります。経験の一つ一つが無駄になることはありません。今の仕事に、そして、人生に大いに役立っています。

日々深まる日本への思い

最後のチャンスと決めてブラジルに来てから7年。振り返るとさまざまな困難に直面してきましたが、時には周囲の協力を得ながら乗り越えることができました。私の経験値レベルは年々上がっているようだと実感することができます。同時に日本への思いも日々深まっています。

ブラジルで日本人は高く評価されます。これは110年前に移民としてブラジルへ渡った日本人たちが築き上げてきた信頼と実績、忍耐強さのおかげです。住み始めてからこれまでに、日系人ではない生粋のブラジル人が熱心に日本を褒めるのを何度聞いたことでしょう。「この先人たちの積み上げた日本人のイメージを壊してはいけない」と常に自分自身に言い聞かせています。

そして、母国日本がいかに恵まれた環境であるかということにも改めて気づかされます。日本で生まれ育って良かったと心から思うと同時に、日本に住んでいた頃よりもずっと日本が好きになりました。いつか、これらの経験を生かして、また日本で外国籍の子供たちのために働くことができたら、と願っています。

2003年卒業
スペイン語学科
久保 和子