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2023/12/21
文 黒田 勝弘(アジア言語学科韓国語専攻客員教授)
筆者の顔写真
筆者の記者人生は今年で60年になります。そのうち40年を韓国で仕事をしてきました。外国駐在記者としては異例の長さですが、それだけ韓国が興味深くて記者としてやりがいのある対象だったからですね。何が面白くてそうなの?どうして記者になったの?とよく聞かれる。人生そろそろ“終活”の時期なので、この場を借りて記者生活を振り返ってみようと思う。
まず、現在、世界を揺るがせているイスラエルとパレスチナ(ハマス)の戦争のことです。というのは「イスラエル」は筆者の記者生活において忘れられない外国だからです。半世紀も前、初めての海外取材で訪れたのがイスラエルで、今ニュースの焦点になっている「ガザ」にも足を踏み入れているのです。そんな思い出もあって毎日、テレビニュースに引き込まれている今日このごろです。
最初の海外取材がなぜイスラエルだったかというと、半世紀前の1972年5月、パレスチナ支援闘争に加わった日本の過激派青年3人がイスラエルの首都のテルアビブ空港を襲撃し、乗降客100人以上を殺傷する大事件が起きたからです。日本人が今回の「ハマス」のような役割をしたわけで、国際的大事件になりました。筆者はまだ30歳になったばかりの”駆け出し記者”でしたが、警視庁担当の”事件記者”だったため「直ちに現地に飛べ!」となった。南周りで飛行機を乗り継ぎ、東京からは”1番乗り”を果たしましたが、空港ロビーにはまだ流血の痕が残っていましたね。
この時、イスラエルに約1カ月滞在しました。事件で唯一、生き残って捕虜となった日本人青年?岡本公三の軍事裁判まで取材し、さらにカザをはじめパレスチナ人居住地やシリア国境の紛争地ゴラン高原、ヨルダン国境の「死海」など各地を訪ねて、イスラエル?パレスチナ問題を肌で経験したのです。
当時のガザは海辺の寂しい難民村のような印象でしたが、今回の戦争でテレビに写し出される映像では大きな都市になっていて驚きましたね。人口は200万人以上とかで、半世紀前に比べると10倍ほどになったのではないでしょうか。激しい戦闘や痛ましい被災状況に接しながら、イスラエルとパレスチナの「和平と共存」を祈るしかありませんが、筆者にってはこれがその後、海外担当の外信部記者のスタートになる出来事だったんですね。
しかし当時の筆者は、社会部の記者として日本人が引き起こした”事件“の取材でイスラエルに出かけたのであって、アラブ?中東問題にことさら関心があったわけではありません。日ごろ外国への関心という意味では、日本との関係が深い隣国の韓国や朝鮮半島に興味を感じていました。そこで韓国語についてもごく初歩的にハングルを聞きかじったりしていました。
ハングルについていえば、いわば漢字文化圏(中華文明圏?)の東アジアにおいて漢字ではない独自の文字としてすこぶるエキゾチックだったので、子供のころから気になっていました。好奇心の対象として「これができれば人に自慢できるかも…」などとひそかに思っていました。といったこともあって、1972年のイスラエル取材から6年後の1978年3月、韓国に語学留学することになったのです。
外国語としてはイスラエル滞在でヘブライ語にも大いに好奇心を刺激されたのですが、それよりも「まずは韓国語だ」ということで留学にこぎつけたわけです。ちなみにイスラエルでの取材は下手な英語でやり、ヘブライ語のヘブライ文字もアラビア文字に比べるととっつきやすいように感じましたね。
で、1年間の韓国留学から帰国した後、社会部から外信部に移ったのですが、しばらくたって上司から突然、何と「テルアビブ支局長としてイスラエルに行ってくれないか」といわれたのです。中東情勢が複雑化していてエジプトのカイロやレバノンのベイルートに加え、イスラエルにも支局ができていたのですが、支局長交代期になったので後任にどうかというのです。これには驚いた。韓国語留学から帰ってきて何カ月もたっていないのに。
そこで「なぜ僕をイスラエルに?」と聞いたところ「君はイスラエルに土地勘があるじゃないか」と1972年のイスラエル体験のことをいわれたんですね。なるほど。しかし韓国語留学帰りにイスラエル行きはないだろう。
結局、この人事は丁重に断ってテルアビブ支局長は別の記者にお鉢が回ったのですが、もしこの時、イスラエル赴任をOKしておれば、その後の記者人生は変わっていたかもしれない。ヘブライ語もできるようになったかもしれないし、アラブ中東専門記者になって、イスラエル?パレスチナ問題で今ごろは何か書いたりしゃべったりしていたかもしれない…。「ガザ」のニュースを見ながらそんなことを思ったりしています。
イスラエルに行かなくてその後どうしたか、ですか?実はこれが大当たりだったんです。韓国が1979年10月、これまた国際的大事件となった朴正煕大統領暗殺事件をきっかけに、歴史的な激動期を迎えたからです。これで筆者の出番が早まったということですね。筆者の韓国との本格的付き合いはここから始まるのですが、詳しくは後編に回します。次回は、そもそも記者になることを思いついたと思われる小学生のころの話などを紹介します。もう70年以上前のことですが、筆者は通っていた小学校で「子ども新聞」の記者をしているんですね。