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ジャーナリストへの道⑧ ーついに韓国へ語学留学

2024/10/02

文 黒田 勝弘 (アジア言語学科韓国語専攻客員教授?産経新聞ソウル駐在客員論説委員)

筆者の顔写真

韓国語を本格的に学ばなければならないと思ったのは、趣味的な韓国語では意思疎通が不十分だったからだ。たとえば1971年夏の最初の韓国旅行ではこんなことがあった。田舎町の食堂でビールを注文する時、「冷たいビール」と言おうとしたが「冷たい」の単語を知らなかった。そこで知恵をはたらかせ、知ってる韓国語をつなげ「冷蔵庫に、ある、ビールを、ください」と言って成功した。韓国語は日本語と語順が同じだからだ。ところが店番の少年は「アア、ヒヤシ?」というではないか

当時、日本語の「冷やし」が使われていたのだ。本来の韓国語では「涼しい」「スカッとする」という意味でよく使う「シウォナン」が正解だったのだが、それを知ったのはずっと後のことである。

 

もうひとつ、前回紹介した1977年夏の「韓国住み込み取材」の時だ。住み込み先の家庭で二日目にお腹を下し、それを奥さんに伝えなければならない。
明け方、布団に座り込んで辞書を引きながら作文した。「下痢が、はじまりました、朝は、食べられません」と。おかげでこの時覚えた「ソルサ(下痢)」という韓国語は一生忘れられない単語になった。

 

韓国への語学留学は1978年3月だったが、当時、在籍していた共同通信社で上司を説得し、社費による海外派遣留学を勝ち取ったのだ。そのころ日本のメディアでは社費による社員留学制度はほとんどなかった。そのため海外留学を目指す記者たちは英語、中国語、ロシア語その他、語学研修をはじめ留学はすべて自費あるいは各種奨学金で一定期間、休職して出かけていた。

 

そこで筆者は、この際、会社に「社費留学制度」を作らせ、それによって韓国語留学に出かけようと考えたのだ。しかし英語や中国語など大手筋(?)の外国語は、すでに大学などで学んで記者になった者が多い。筆者の狙いである韓国語留学を実現させるために、まず「これまで社内に韓国語ができる記者がいないのはおかしい」と強調。そして「時代の変化に合わせた韓国語やアラビア語などいわば“特殊外国語”の習得が必要である」とする提案書を作り、上司に提出した。とくに韓国語については現地での留学事情を調べたうえで「ついては小生がまず留学を希望します」とアピールしておいた。

筆者は私費でも留学したいと思っていたので準備は勝手に進めていたのだが、何と意外にも筆者の提案は受け入れられ、社費留学制度がすぐにスタートし、その第1号として筆者は1978年3月ソウルに向かったのだ。期間は1年間で給料のほか滞在手当があり、下宿生活をしながら語学校(延世大学韓国語学堂)に通い、仕事は一切せずにひたすら韓国語を覚えるという、実にありがたいものだった。記者生活を始めてから14年後、文字通り“第2の青春”となった。

 

韓国留学にあたって実は筆者にはバイブルのような本があった。長璋吉著『私の朝鮮語小事典―ソウル遊学記』(1973年 北洋社刊)である。東京外語大出身で1960年代後半に韓国に留学した著者の体験記だが、言葉の面白さもさることながら、下宿生活を通じた韓国の人と暮らしの面白さに感動したのだ。その経緯は拙著『韓国語楽習法―私のハングル修行40年』(2022年 角川新書)に紹介しているが、韓国での下宿体験については長璋吉氏の本にならって筆者にも『ソウル原体験―韓国の生活を楽しむ記』(1985年亜紀書房刊)という本がある。

筆者が経験した「人と暮らし」はここでは紹介しきれないが、たとえばこんな感じだった。ある日、身の回りを世話してくれていた下宿のお手伝いさん(家政婦)が「アジョシ(おじさん)、ちょっと!」といって、物干しになっている2階建ての下宿の屋上に筆者を連れて行くではないか。そして屋上で隣の建物を指差し「あれ…」という。下宿の裏手は銭湯で、その壁の上部の小窓が開いていて、女湯が垣間見えるのだった。あれは好奇心満点に“アジョシ留学生”への小憎らしい心遣い(?)でうれしかった。

 

あるいは厳寒の冬の夜更け、下宿のある路地にはキンパ(のり巻き)売りの少年の声が流れる。のり巻きは韓国語では「キムバプ」という。「キム」はノリで「バプ」はご飯だ。その売り声は「キ―ムバプ、キームバプ…」のはずなのに、なぜか「キーンバム、キーンバム…」と聞こえるのだった。「キーン」は「長い」で「バム」は夜を意味する。少年は長い夜に嫌気がさして「キーンバム」と言ってるようだった。もちろんそう聞こえたにすぎないのだが。これは70年代ソウルの下宿街の情緒として今も忘れられない。

冬近くになると路地先の大通りには白菜や大根がトラック何台分も山積みにされ、キムチ漬けの主婦たちの人だかりができる。そして路地裏では「ナルロヨ、ナルロヨ…」と声を上げながらアジョシがリアカーを引いている。「ナルロ」は「暖炉」のことで、冬を前に決まって石油ストーブの修理屋が登場するのである。今はまったく聞かれなくなったが、季節ごとの路地裏の物売りの売り声は懐かしい。街の風景は写真で残るが、物売りの声はどこにも残らない。

 

大学の語学校の授業は午前中で終わる。昼飯は大学前の下宿近くに市場(シジャン)があったので、毎日のようにそこの飯屋に立ち寄る。韓国では「知った仲」と「知らない仲」では待遇がまったく異なるので、食堂や喫茶店、レコード屋、本屋…多くの店でなじみ客になった。顔見知りになると何でも言うことを聞いてくれる。言葉の練習にももってこいだ。

 

シシジャンの飯屋の思い出をひとつ。さる焼き魚屋のおっちゃん(アジョシ)と仲良くなったが、彼は日本統治時代に旧満州の関東軍にいたというのが自慢で「日本が戦争に負けてなければ自分は今ごろはカリフォルニア州知事だよ!」と言っていた。日本が米国を支配し、(日本国民である)自分はそうなっていたかも、というのだ。70年代の韓国社会では過去の歴史について、そんな多様で愉快な個人的物語がまだ語られていたのだ。日本時代を実体験で知る世代がほとんどいなくなった今は、マスコミなどで語られる歴史は悪いイヤな話ばかりだが。

 

シジャンはいい学びの場所だった。魚が好きな筆者はシジャンで魚屋を見て回るのが楽しみで、おかげで魚の名前をたくさん覚えた。日本の「アジ」は「チョンゲンイ」などという難しい(?)単語も早く知ったし、今では魚の名前は韓国人よりよく知っていると自慢している。シジャンはいわば昼間の課外教室だったが、それより勉強になったの「夜間大学」だった。夜に毎日のように通った飲み屋のことを筆者はそう言っていたが、とくに女性がお相手してくれる店は会話練習にはもってこいだった。

大学も下宿も「シンチョン(新村)」といわれる地域にあった。ところがこの地名の「シン」の発音が日本人には難しい。エヌにあたる「ン」の音がよく出ないのだ。日本人留学生がタクシーに乗って「シンチョンに行ってださい」といってもよく「市庁(シチョン)」に行ってしまうのだ。夜間学校でそんな話をしたところ、お相手の女性は「シンチョーン、と少し伸していえばいいのよ」といいその場で練習し、翌日、タクシーでやってみるとばっちりだった。夜間大学の授業料は安くはなかったが、お遊びとの一石二鳥と思えば納得である。

 

夜間大学を含めたこんな留学は若い学生にはできない。筆者は当時、36歳の社会人留学生だった。ミスしてもダメ元みたいにハラはできていたし、それに十分な滞在費もあった。記憶力は弱っていたのでお勉強には身が入らず、決して優等生ではなかったが、若者とは違った応用力や行動力、実践経験でがんばったというわけだ。

 

下宿は半年ずつ二軒経験した。朝夕二食付きだった。韓国人学生や他の外国人留学生もいて、食事時に共にテーブルをかこむことがあり面白かった。とくに若い米国人語学留学生など、下宿飯が口に合わない様子は気の毒なほどだった。ある朝、シイタケの炒め物が出たのを待望の肉と勘違いし、まっ先にハシをつけたものの、たちまち「オオ!」といって顔をしかめてしまった。ある韓国人学生とは彼が大学卒業、就職、結婚後まで付き合いが続いた。

 

この留学時代から30年以上経ったある日、筆者は「シンチョン(新村)」の大通りの横断歩道で信号待ちをしていたところ、隣に立っていた中年女性が「あのう、クロダ記者じゃありませんか?」と声をかけてきた。一瞬、戸惑っていると「ミョヌリ(嫁)ですよ」といわれ思い出した。留学時代の二軒目の下宿屋で、新婚の長男の嫁として時々、下宿生たちの食事準備を手伝っていたのだ。

そういえば彼女には30年前の面影が残っていた。当時、新婚の彼女のアイデアで、下宿飯としてはきわめて珍しいカレーライスが出された記憶がよみがえった。あの後、筆者は記者としてあらためて韓国にやってきて、韓国のテレビなどに出ていたので、顔と名前を覚えてくれていたのだ。交差点の信号が変わるまで、あわただしく言葉を交わして別れたが、あれは感動的な遭遇だった。次回からは韓国での記者生活を紹介する。